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先生のコラム

本当は面白い易の話

内原拓宗

年齢を重ねてくると(という私もまだ40代前半ですが・・)新しいやり方、考え方を取り入れるのが難しくなってくる、と感じることがあります。過去の経験、いままでのやり方にとらわれ、変化がおっくうになってくる。

このコラムも何らかの変化を求めて始めたはずが、早くも2回目で少し後悔しながら書いているわけです。そもそも「本当は面白い」とうたっているけど、これ、本当に面白いか?と自分でも思うわけです。「雉も鳴かずば撃たれまい」と言いますが、余計なことをしなければねえゴニョゴニョ・・・。

何にしましても、私たちの脳は「今までと同じパターン」というやつが好きみたいで、日々の生活のあらゆる場面での行動や考え方も、自分の脳が持っているパターンを繰り返す傾向があるように思います。

ところが、大抵はその「パターン」では対応しきれない事態が用意されていて、さてどうしたものか、と頭を抱え込む、というのが私たちの日常ではないでしょうか。

そんなとき、「信念」の名のもとに今までのパターンを用い続けることもあれば、「君子豹変」の様に柔軟に対応することもあれば、占いに頼ったりする、ということもあるかもしれません。

今まで通りではうまくいかない事態、というのは本人にとっては大変な苦痛ですが、うまく変化することで何かを学ぶチャンスでもあります。実はこれ、少年漫画のストーリーの王道ですよね。

大抵の主人公は次から次へと、これでもか、というぐらいに困難に見舞われますが、努力(自身の工夫)や友情(周囲の助け)で乗り越え、新しい必殺技を獲得したりしていきます。私の世代ですと「かめはめ波」を出そうとしたり、「北斗百裂拳」と叫びながら腕を振り回したりした人は多いと思いますが、なかなか必殺技の獲得は難しいようです。ふう。

話を元に戻しますと、この常に変化する世界に、どのように対応するのか、というのは実は易の世界の中心的なテーマでもあります。

という訳で、今回ご紹介するのは易の64のテーマの4番目に出てくる「蒙(もう)」です。
例によって陰(― ―)と陽(――)の記号の組合せで表すとこうなります。
 
 

は山や気高さを、は水や困難を象徴しています。山のふもとに湧き出る水はちょろちょろと頼りない流れですが、やがて大河となり、海に注ぎます。また、今は困難に見舞われてくじけそうでも、やがて乗り越えて成長し、自分を高めていける、そんなイメージが湧きます。

「蒙」という文字自体が、太陽が草むらに覆われてしまい、周囲が暗くてよく見えない、という意味を持っており、「無知蒙昧」などという言葉もありますが、古代中国の人はこの「蒙」についてこんな説明を付けています。

匪我求童蒙 童蒙求我(我れ童蒙を求るにあらず 童蒙我れを求む)

「我」というのはここでは師匠(教える側)を、「童蒙」は教えを受ける側を指します。私たちが何かを学ぶためには、学ぶ側が自ら求めて積極的にならなければ成立しない、ということがここでは述べられています。ともすれば教える側ばかりが力んでいる、というのは2千年前でも変わらないようです。

そしてこの「蒙」は私たちの脳が今までのパターンを好み、変化を嫌がって成長しないのを戒めているようにも思います。

もう10年以上前の映画になりますが、スタジオジブリの「千と千尋の神隠し」という作品がありました。小学生の女の子である千尋が神隠しにあって異世界で働きながら成長していく話ですが、冒頭でむくれてブスッとしていた千尋が、様々な困難を乗り越えることで成長してスッキリとした表情に変化していくところが印象的でした。

私はこの作品に易の「蒙」の世界がとても分かりやすく描かれているように感じてなりません。

そういえば、後半から登場する「カオナシ」はまさに「童蒙」の象徴のような存在です。今までのパターンに固執し続けると、やがては「カオナシ」のように周りのものを飲み込んでしまうおばけになってしまうかもしれません。そうはならないようにしたいものです。

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